向き合う日々

動いて考えて捨てて減らして、感じて変わっていくかもしれないブログ

「よしよし」と「なでなで」の効能。

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私がイライラし始めて、どんどん声が大きくなり、ガミガミレベルを超えた怒鳴り声に変わる前に、息子(5歳)はススーっと近寄ってきて、

 

「よしよし、よしよし。」

 

と言って頭をなでなでしてくる。私の髪型がぐしゃぐしゃに乱れることなど一切構わず、ペトペトの手のひらで撫でてくる。息子は眉毛を八の字にしながら、私の顔色を覗き込むように

 

「よしよし、よしよし。」

 

と唱え続ける。

 

そのうちイライラは小さくなり、涙が出そうになる。だけど、涙を流したら折角の洒落がマジになっちゃうから、我慢して抱きしめる。そして、脇腹をこちょこちょする。

 

ママの顔が緩んだ…

 

ひっそり確認していた娘(10歳)が近寄ってきて、同じように「よしよし。」と言いながら頭をなでなでして、そのあとぎゅーっと抱きしめてくる。

 

 

 

 

 

「よしよし」なんて、たかがよしよし、そんなもんやってられっか…とか思ってた。「なでなで」とか、そんなのテレビでしか見た事ねーよ、作り話でしょ…って気恥ずかしくて。

 

始めは演技した。

 

泣きながら痛みや悔しさ怒りを訴えてくる子供達に、取って付けたような言葉を乗せて、とりあえず「よしよし」っていう台詞と「なでなで」の手振りをつけた。

 

子供が泣いたら、どうしたらいいかわからなかったから。

 

いや、わからなかったというか、「泣き止ませる」以外の方法を知らなくて。子供が泣いたら、泣き止ませなきゃならないとしか思ってなかったし。

 

泣く事は悪い事。…いつからそう思っていたのかわからないけど、私には常識で、泣き声を聞けば自然とイライラしてきて。「なんで泣くの?」っていう不安と「うるさい」っていう嫌悪感がムクムク沸き上がる。

 

「なんで泣くか」つったって、泣きたいのだから泣くんだけれど、私には「どんな理由で泣くか」が重要であった。理由がわかれば泣き止むことへの解決策を見い出せて、その不快な状況は変えられると思ってたので。

 

「泣く」は感情表現の一つなのだから止ませる必要はない、…と知るまで長くかかった。止ませずとも、止む。理由を知る必要は無かった。理由を知ったところで泣き止むわけではないのだし、止ませなくとも止むものなんだから。

 

「止ませずとも止む」には飽きるまで思う存分に泣くことが大事だった。それは自分がそれをやって始めて気づいたことだけど、安心して飽きるまで感情を出すことで、自らその感情にケリをつける経験をする。その経験を積み重ねることで、感情を正しく表現することを学ぶ。…のだろうと思う。

 

それには、安心して感情を吐き出せる場所が要る。そのスペースは親の私自身。私が安全地帯になれば子供達は思う存分泣ける。

 

泣いてる時に抱きしめるのは逆効果。何でだろうな…、あぁいう時って、ギュッとされるのは嫌なものなんだよね…。やめろー!って暴れたくなる感覚はなんでなんだか。だからといって離れたところで見てるのもダメ。寂しさが足されてしまうから。

 

治まりがいいのは、体育座りで足を広げた真ん中のところ。腕と足で円を作って囲えるくらいの空間が安心できるのかな。触れずに囲える、囲ってもらってるっていう感じがいいのかもしれない。

 

とは言っても泣く姿を見聞きしてる私はしんどい。その場にただ居るのは苦手だ。どうにもこうにも手持ち無沙汰で不安になる。どうしよう…どうしたらいいんだろう…、もう!うるさい、泣き止め!ってやっぱり頭の中はパンパンになる。だからそのイライラを吐き出さない為にも「よしよし」と言いながら「なでなで」を演技してその場を凌いできた。

 

 

 

 

私が子供達にしてきたであろう事を、子供達は真似て私にしてくれている。真似て取り入れて咀嚼して反復して。そうやって私の全てを見て聞いて感じて成長していく。怖いことだが、成長とはそういうこと。

 

私の「よしよし」で何かを感じた…というより、困った場面で使うことだと学んだのかもしれない。これから起こるであろう恐怖感からの回避として、無意識にやったことなんだろうと思う。

 

私は後ろめたいような気持ちから始めたことだけど、少し身に付いてきた。私には「よしよし」と「なでなで」がある…っていう安心感も出てきて、子供達の感情を目の前で見守ることも出来てきた。

 

「よしよし」と「なでなで」は、落ち着く。

 

親子逆転の関係は危険だけれど、それでも経験する必要があったのだと強く感じる効能なのである。