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向き合う日々

動いて考えて捨てて減らして、感じて変わっていくかもしれないブログ

失敗は責められる事という感覚。

 

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失敗は、私にとって責める責められることであったから、嫌で嫌で触れたくもないことでした。だから、失敗も成功も結果のわからないことを、やり始めたくなかったし試めそうとはしなかったし、結果が出る事を避けてきました。

 

失敗が怖いから未来が不安。不安になる材料は、そんな風に作られてきた気もします。

 

でももう、失敗しても誰も私を責める人はいない。夫も子供も私を責めません。唯一しぶとく自分を責め続けたのは「自分」だけです。

 

自分を責める事で、失敗を無かった事にしたかったのかな。…というより、失敗から目を逸らしたいから責めるに意識の方向を変えたってことかも。

 

失敗という結果を、責めるという罰に意識を向けることで、忘れたかった…?そんな感覚のほうが近いかも。とにかく、失敗したという事実に目や意識を向けれなかったんです。「怖いから」という言葉が浮かびますが、それが「責められるから怖い」に繋がっているかどうか…?

 

「怖い」に対しては、恥ずかしさに耐えられない怖さ…っていうところもあります。失敗すると恥ずかしい…っていう感覚。恥ずかしさはダメなこと、そんな風にも感じます。恥ずかしさを感じること自体、嫌なことでしたし。

 

責められると恥ずかしさを感じる、恥ずかしさを感じるのが耐えられないから失敗したくない。失敗したくないから動かない。そんな構図。

 

罰は失敗を無くさなかった…。自分に対し「責めるという罰」を与えても、失敗自体は無くなりませんでした。むしろ、死にたくなるばかり。逃げたくなるばかりという結果にようやく気づきました。

 

どうしても「責めるという罰」を止めたかったので、代わりになる「反省」を知りました。代わりがないと失敗した時のしんどさを、どう取り扱っていいかわからないので、反省のやり方を学びました。じゃぁ、反省とは具体的に何かというと?

 

広辞苑では「自分の行いを省みること。自分の過去の行為について考察、批判的な評価を加えること」となっています。

 

私は、自分が何をやって実際何が起きたかを省みる「思い返す」行為、そう捉えました。責めるという罰を与えることより、思い返すという反省をする。

 

それも始めは、居心地が悪かったー。思い返すだけでいいの?責めなくていいの?って。 

 

反省という言葉の意味を履き違えていた時は、「反省に何の意味があるのか」と忌み嫌っていました。反省したって、くり返すだけじゃないかー!と。失敗が無くなりはしない、何の意味もないじゃないかー!と。だけど、そこが間違ってた。

 

「失敗は無くならない」んですね。無くそうと頑張ってきましたが、努力の方向を間違ってました。「失敗があっての成功」なのだから、無くそうと努力するってことは、誰にもできないことをやろうとしていた…ってことと同じ。成功したいなら失敗を重ねるしかないわけで。

 

無駄な努力の仕方と言えばそうなのですが、無駄な努力もコレに気づく為には必要だったのでしょう。このことをそういうものだ…と知らずに生きてきたのだし、40年くらい間違った努力をしてきたのか?と思うと、かなり悔しかったけれど、時間をかけて受け入れました。事実を知って受け入れられず、不貞腐れて生きた月日は長かったですけどね…。

 

 

ピザを黒こげに焦がしても、誰も責めませんでした。私はむしろ楽しかった。

noribealive.hatenablog.com

 

この、失敗の中にあった楽しさの体感によって、動くことへ億劫さは減ってきました。「何もやりたくないが私のやりたいこと」から始まり、「やりたいが有るのに出来ない」になり「やりたいをやる」になりつつあります。

 

10年程かかりましたが、「ずーっと同じ」なんてことは無いんだなぁ。ま、それも当たり前のことでが、それすら受け入れたくなかったからねぇ…。

 

失敗は怖いです。できれば失敗したくない。だけど失敗を楽しいと思えることもあるし、またやりたいになることもわかりました。

 

だから失敗してもまたやります。