一枚でも百枚でも、「やった」に入れる。
滞ってるなぁ…、脳みそ疲れてるなぁ…と思いつつ、休むことを選ばない。こういう時こそ「休む」を選べばいいのに、休んでもなんだか落ち着かない気がする。じゃぁどうしよう…。
では、捨てよう。
行動が伴わず頭の中がグルグルする時は、 物に手をつけて身体を実際に動かしてみる。そう、動いてみるべし。いや、身体がついてくる時は。体が重い時は、速攻横になるべしだけど。
シュレッダーをかけなきゃ…と思いつつ「やりたくないなぁ」と止めそうになった。だけど「全部やんなきゃならないとは決まって無い。一枚でもやったことになる。」と思い直し、シュレッダーを押し入れから出してきた。どうも私の中には、
「全部シュレッダーをかけないと、やったと言わない。」
という感覚が根付いている。一枚細断して捨てても、百枚細断して捨てても、どちらにも「捨てた」は付いているのに…。あぁ多分、百枚やっても千枚あったとしたら、絶対に「やった」にはしないな、あちゃー。
そう、こうところだ。私には「やった」が無い。どれだけやってもやらなくても「やってない」しかない。どこに置いてきたんだか、忘れてきたんだか、わからないけど「やったと言って良い」とは思ってこなかった。
そうだな…こんなことで満足しちゃいけない、そんなことをやったなんて言っちゃいけない、そういう言葉が思い浮かぶ。
「こんなこと」ってなんだろう。「そんなこと」ってなんだろう。
「こんな」も「そんな」も、「大したこと無い」という意味だ。だけど、一枚の紙をシュレッダーで細断することは、本当に大したこと無いのだろうか?
一枚なら大したこと無いかもね、目の前にシュレッダーが置いてあって入れるだけならば。でも、押し入れから出してコンセントに繋いで、入れて細断して、終わったら紙くずを捨ててコンセントを抜いて、押し入れに仕舞うまでやるとしたら、「大したこと有る」おおごとだ。
だったらもう、「やった」に入れればいいのに。「やった自分」を認めればいいのに。
そもそもシュレッダーを押し入れに収納して、わざわざ出さなきゃならないシステムにメスを入れろって話しなんだけれど、それはそれでまた別の問題をクリアしなきゃ進まないのだから、今出来ることで「やった」を実感せねばなるまいな。
今やれる目の前のことを飛び越して、ずっと先に見える理想を望んでも、距離は縮まらない。理想に近づくには、何度も似たような経験を繰り返し、失敗しながら成功を積み重ねる。そしたら、理想が現実になる可能性もあるというわけで。
百枚やり終えるには、始めの一枚目をやればいい。一枚やり始めれば、やり終える可能性が見えてくる。
でも、一枚やり始めたからと言って、百枚やり終える保証は無い。途中でシュレッダーが壊れることもあるし、停電になることもある。飽きちゃうこともこともね。
私は今まで「やり終える為の保証」が欲しかった。シュレッダーは壊れない、停電にはならないという確実な保証が。自分が飽きずに最後までやるという保証がなければ、やり始めたくなかったんだ。
どこ探してもそんな保証は無いんだけどさ、実は。
一枚目を始める前に、シュレッダーが壊れないか点検に出し、停電しないか電力会社に確認するような行為を大事なことだと位置づけてきた。
「◯◯の為に、△△をする」とか「◯◯の為に△△をしない」とか。そんなことばかりに注目して、本当にやりたいことから遠ざかってきた。
本当は、やってみて、問題が起きたら対処して、迷惑かけたら謝って、助けてもらったら感謝する。そういうことで充分だった。
先行き不安が大き過ぎるんだな。目的を達成出来ない失敗と、不測の事態を回避出来なかった失敗を自分の落ち度としてまとめ、「失敗の記憶」だけ残す。器用だ。
そうなると、百枚やり終えないという「やらない自分」を見たくないになる。やらない自分を見なきゃならないなら、始めからやらないほうを選ぶと。まぁ極端で。
それに、百枚やり終えなければ「やる意味が無い」と切り捨てる。一枚でもやったら「減った」という事実はあって、これが意味のはずなんだけど…。
思考も、シュレッダーにかけてスッキリ捨てる行為があればいい。だけどそれは難しい。頭の中で思ったら捨てた気になっちゃうけれど、堂々巡りは止まらない。だからこういう時は、物を捨てる行為で流れを変える。
紙と共に捨てたかったのは、「滞る自分」。
結局、45Lのゴミ袋一つ分のシュレッダーをかけた。やる前は、やらないを選びそうだったのに。「一枚でもやったことになる」と思い直して、「一枚だけ」のつもりが何枚やったんだろう。おそらく数百枚だと思うけど…。
「一枚でもやった」 と思う力が弱い。
まずは、シュレッダーをかけたという「やった感」に意識を向けようと思う。