向き合う日々

動いて考えて捨てて減らして、感じて変わっていくかもしれないブログ

不安は恐怖という勘違いからくる怒り

 

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今年の夏は、夫の畑が大豊作。枝豆、きゅうり、オクラ、人参、ジャガイモ、ネギ、ニンニク、甘長唐辛子、とうもろこし…。

 

でも、冷蔵庫がパンパンになったり、穫りっぱなしで置きっぱなしにされることは、私にとって最大のストレスだった。予定外で想定外の物が家の中に入ってくることが、苦手、というか嫌。順応出来ないというか、受け入れられないというか。自分が欲しい時に来なくて、欲しくない時に来るってことが嫌だという、ワガママで。あんたの趣味になんで私が関わらなきゃならないのよ…、最後まで自分で処理しろよ…。そういう今までの鬱憤も請け負いきれず、「なんでこんなに穫ってきたのぉ〜?なんでこんなに植えたのよ!(怒)」と「なんで?」を使ったどうしようもない疑問符で、夫に文句を言ってた。鬼嫁だな…ってか人としてどうなのよ…。

 

この暑い最中、草むしりや水撒きをして丁寧に育てたのに、家の中に持ってったら開口一番「なんで?」と文句言われる…って、酷い話し。いくら夫の趣味とはいえ、もれなくご相伴に預かり色んな意味で堪能してるのに…、どこまで偉いんだ私は…と情けない。

 

瞬間的にパニックなるというか、「こんなに食べきれない」だとか「保存できない」だとか、「腐らせたらどうしよう」だとか、すぐに処理対応しなければならない、と追いつめられた感じになる。どうしよう、こんなに…どうしよう、どうしたらいいんだろう…と戸惑い、こんなに私を混乱させて困らせてる夫が憎い、とか思っている自分がいる。

 

この「憎い」っていう感情から「怒り」に変わる。不安→恐怖→憎しみ→怒りみたいな経過を辿るんだと思う。時間にしたら多分1〜2秒の間に起きてることだから、見た目の反応としては「即、怒ってる」だ。

 

だけどその「怒ってる」原因は案外簡単なことだった。調理方法や保存方法を知らないってだけで、「私には目の前の野菜を処理する能力が無い」ってことだ。自分の中に無い能力を一生懸命探そうとして、その探そうとしている行為が「考えること」で、その考えることが「面倒臭い」ってことで。面倒臭さのきっかけを作った夫に対し、怒りを感じるってことなのかもな。

 

それに「能力が無い」っていう極端な言いかたより、「知らない」って捉えればいいんだけれど、その「知らない」ってことすら、「恥」程度に思うことが出来ず、「知らないは、命をとられる」くらいに感じてる自分もいる。自分が「知らない」を受け入れれば、「聞く」行為に繋がるのに、「知らない」すら自覚したくないからって謙虚にもならない。そう言えば、「謙虚」がわからない。謙虚と思っていたことは自己卑下だったし、謙虚をしたことがないんだ。

 

「自分にはその能力が無い」ってことを、相手(夫)に知られたくない…というか、知られたら負けだ…っていうか、知られたらダメなんだ…という、そんなものがあるような気がする。そこにも勝ちとか負けとか、おかしな感覚があるわけで、そこも掘り下げなきゃならないんだけれど。

 

目の前の「ある」が見えていない。「ない」ことばかりに意識が向いて、不安になって怒りという表現に変わる。怒りになるのは、自分が作った「ないという不安」を、「夫が持ってきた不安材料」だと勘違いしているからで、不安材料を持ってきたであろう夫に対し「こんなに怖い不安をお前が持ってきたんだ!どうしてくれるんだよ!」と訴えたくなり怒りに変わる…という仕組み。

 

感情は、自分が作り出してるはずだけど、そういう事実は受け入れ難く「目に見える状況を変えたのは夫なんだから、私を不安にさせたのは夫なのだ」と非難して、夫の行動を変えようとばかりしてきたように思う。不安にさせたとか、怒らせたとか、そんな現象はそもそもないんだけどね。勝手に不安になって勝手に怒ってるだけなんだわ、ホントは。

 

「不安」に対する捉え方もまた歪で、「不安だなぁ」程度に持ち続けていられれば怒りにまで発展しないはずなのに、「不安=恐怖」がセットになっているから、「不安は怖い」が心身に染み付いていて、強烈な恐怖感から自分を守ろうと、怒りで反撃するが当たり前になってた。…のではないか?と思うのだ。

 

怒りの前にある感情を浮き彫りにすることで、自分が何を思ったかがわかる。自分が何を思ったかがわかれば、自分のどこが間違っているのかが見える。

 

自分の間違いを直視することは、辛いし苦しいし恥ずかしい。「自分は間違ってない」っていう今までの自分の主張を、否定することになる。今までの苦労を、それすらも間違いだったと認めるのは、こんなに勇気が要ることなのか…と思う。だってそうでしょ、信じて頑張って得てきたことが、実は間違いを得てきただけで、間違いを積み重ねたから心身を壊したっつって。だからやり直そうと別のやり方をやってみたのに、それも間違いで…って。やるせないし、やる気っていうか見る気にならない。避けたいし逃げたい。

 

だけど、「自分は間違ってない」っていう主張は「自分が正しい」と言っているのと同じ。自分の正しさを振りかざしながら生きてるってことは、「私に従え」という態度に現れる。

 

それは「支配」であり、その姿はダサい。

 

カッコ良く生きたいとか、美しく生きたいとか、そんなことは思わない。だけど、ダサいのは嫌だ。

 

不安を感じても怖がらなくていい。恐怖を感じても反撃しなくていい。不安も恐怖も、ただそのまま感じればいい。不安になったら「不安だ…」と口に出してもいいし、怖くなったら「怖いよ」と言えばいい。我慢したり、感じないようにする必要はなくて、誤摩化すことも無い。やっとそいういう話しがわかった気がする。

 

不安も恐怖も感じたくないものだった。もうお腹いっぱいだよ、もう充分感じまくったよって。これだけ不安と恐怖に晒されてきたのに、まだこの先もこれらの感情と付合うのかよ、いっそ無くなれ!と思って、その為に向き合ってきた。だけどそれは不可能で、人間として生きるならば避けられないとわかった。避けれないなら、避けずに生きる方法を学ぶほか無い。

 

学ぶには、自分を知るしかない。自分を知るには、自分を見なきゃ。「何様な自分の姿」を、しっかり見なきゃ…だ。