向き合う日々

動いて考えて捨てて減らして、感じて変わっていくかもしれないブログ

「できない、いけない、わからない」を連発する時

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久しぶりに、家族以外の人に腹が立つ。「ない」を訴えるってこういうことなんだなって、改めてわかった。

 

ちょっと前の自分を見ているようだ。できないことを次々とあげて、できることを考えず自分の主張だけするってスタイル。

 

何かにしがみついてんだなぁって思った。不安でいっぱいなんだなぁって思った。そして、ダサいなぁって思った。

 

自分だけがこの世の中で一番辛い目にあってるんだ…って思ってた時、こんな感じだった。あなた方と私は違う、私はずっと大変な生活をしてるんだ!って思ってた時、こんな感じだったな…ってその人を見てたら思い出した。

 

「できない」って言葉って割と簡単に使うけど、実際に「できない」ってのは無い。拘束されて自由を奪われてたり、身体機能的に無理なことなら「できない」はあるけど。一般的な生活を送れる人に「できない」は無いってやっぱり思う。「できない」じゃなく、本当は「やらない」を選んでるってことで、もっと言えば「やりたくない」なんだ。

 

「できない」ってばっかり言ってた時があった。カウンセリング行く度に、「わかってるけど、できない」つって、びーびー泣いてた。あれは酷かったよ、今思えばあの時はヒドかった。穴があったら入りたい気分になる。仕方なくできないって言ってんだよ、みたいに言ってたような記憶もあるしさ。通い始めて2年くらいはそんな感じだったわ。わかってないことほど、「わかってる」っていうしね。

 

わかりたくないから「わからない」って言葉使って逃げるんだ、こそっと。めんどくさいことしたくないから「わからない」って言っちゃうとかさ。本当に「知りたい」とか「わかりたい」とか思ってたら、なんとか探すんだよ自分で、わかり得る方法を。

 

「できない」を連発する時って、自分から動きたくないって時。私はこんなに大変なんだから周りが動けよ、って周りを動かそうとしてる時で。本人にその自覚がないから厄介なんだけど。

 

「行けない」って言われてもさ、「で?」って話でね。「行けないからこうして欲しい」って提案するなり、お願いするなり方法は色々あるわけで。「痛い痛い」って訴えるだけって子供だろうよ。現状を理解することは大事だし、その時の感情を自覚するのも大切にしたい。けれど、打開策を自分で考えずただ訴えるだけでは、周りの理解は得られない。

  

「できない→やりたくない」「行けない→行きたくない」「わからない→わかろうとしない」って受け止めるのは、ひねくれてるのかね、私。あ、歪んでるのか。

 

「できない、行けない、わからない」は、協力を得るのが難しい。誰もわかってくれないとか、誰も助けてくれないって言ってた時、手を差し伸べてくれる人に気づかなかったし、気づく気が無かった。自分を哀れんで自分を可哀想だと思うだけで。

 

そういうことにどっぷり浸かったから、今、自分と似た他人を見てわかることもある。だから、そういうどうしようもない時期も必要だったんだと思う。似てるからこそ腹が立つ。自分が重なるからこそ腹がたつ。

 

「人のふり見て我がふり直せ」

 

わかった気になってたことわざ、思い浮かんでしまったよ。本当の意味を知ったような気がする。沁みる、全身に沁みる。痛い、ズキズキ痛む。そして、やっぱり恥ずかしくなる。他人っていう鏡に映った自分に腹をたてる自分に気がついて、恥ずかしくなる。