向き合う日々

動いて考えて捨てて減らして、感じて変わっていくかもしれないブログ

自殺は「死を選んだ」ではないと思う

目に見えたり聞こえてきたりすることだけでは、その人が抱えている思いなんて、少しも知り得ないんだな、って改めて思った。

 

順風満帆だとか、才能に恵まれているとか、「死」とは無縁の人なんだと勝手に思い込んでいる自分がありありと浮き上がってくる。

 

それと同時に「なぜ」と理由を知りたくなる自分もいる。この「なぜ」は、なぜ強く出てくるのだろう。興味本位?同情?混乱?全くの無関係でただただテレビで見かけるだけなのに、なぜ私は理由を知りたいと瞬発的に思うのか。理由を知ったとして、一体何がしたいのか。野次馬根性のような、そんなどうしようもなくくだらない自分も見える。

 

それでも私は、彼の死のニュースにショックを受け、とても後悔した。

 

スマホで見たネットニュースから様々な文章を読んだ。その中でも「死を選んで欲しくなかった」というような一文に引っかかる。

 

 

私が「死にたい」と思っていた頃、私の中に選択肢はなかった。死を選ぶ以外の選択肢がないから、自ら死を選んでいる自覚がなかった。「死しかない」「死ぬ以外ない」「死ぬしかない」というような思いと言葉に支配されているような、縛られたような感覚で息をしていたなぁと思い出す。

「死にたい」という欲求などとっくに通り過ぎて、自分の意思や希望、要求があることすら頭の中になく、もっと圧迫感と緊迫感と息苦しさの中で、ただただ時間が過ぎるのを耐えていた。

私の場合、毎日を過ごすだけでもこんな状態だったから、感情を少しでも揺さぶる出来事が起きれば、あっという間にトレガーとなって、どうやって死のうかと瞬時に死ぬ方法を巡らせて「あとは実行に移すだけだ」とタイミングを見計らったりしていた。

当時のことを思い出すと、あれは病的な状態で、医学的なことはわからないけれど脳内で何かが起きていたことが今になって理解できる。だからこそ投薬治療が必要だったし、閉鎖病棟への入院も適切な治療だった。そして、それらの行程が功を奏したと今は言える。

 

「死しかない」「死ぬ以外ない」「死ぬしかない」という思いでいっぱいな時、周囲のことはまるで目に入らない。私の家族や私に関わる人々が、私の死によって何を思うかや何が起きるかなんて、考えもしなかった。全てがどうでもよくなり、全てを終わらせたくなり、それを叶える唯一の方法が死ぬことだと、盲目的に思っていたから、その思い以外が入る余地などなかったし、それを入れようともしなかった。

 

「死」以外、何もなくなった時、「死」を実行しない自分に腹が立った。「結局自分は死にたいとか言いながらのうのうと生きてるじゃないか、死ぬことすら実行に移せないどうしようもない人間だ」そんなことばかり思うようになった。「私には死ぬ勇気もない、覚悟もない、口先だけの醜いやつだ」そんなことも思った。

 

 

でも今となっては、勇気も覚悟もない私だから今を生きることができているのだ、と思っている。

 

 

自殺という結果に対し理由を探すのは、生きている人が死という事実を理解するためなのだと思う。しかし、自殺の理由は本人にしかわからないし、もしかしたら本人にもわからないかもしれない。仮に理由がわかったとして、生きている人は何ができるのだろう。

 

私は、彼の自殺の理由はどうであれ死の事実を受け入れたい。そして彼の死をきっかけに、自分の生と死に向き合ってきた者として、何か発せねばならないと思った。もっと書き続ければよかった、もっと発すればよかった、もっとさらけ出せばよかった、そんな思いにかられた。

 

例えば、自殺はダメだとかやめさせたいとか、そういうのではなく、ただ、ただ、自分の体験が誰かの何かになればいいな、って思ってる。