向き合う日々

動いて考えて捨てて減らして、感じて変わっていくかもしれないブログ

「クズな自分」「ダメな自分」って表現は、見るに堪えない

 

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私は自己評価が低いし、自分を好きかと言われたら「はい、好きです」とは答えない。ちょっと前ほどそれらの気持ちは強くないけれど、未だに「自分が好きです」とは言えない…つーか言いたくない。「言えない」なんていう言い方で、誰かに許可されてないから的に言葉をやんわり無責任にする言い方もやめたけど、やめ始めたけど。だから自らの意思で言ってるんだと表現するためにも、「言いたくない」を選択するようになった。ややこしい話しですみません。話が逸れました。

 

「自分のことが好きです」って言う時は来るかな…。来たらいいなとは思うし割と身近になってきた気もしてる。だけど、言うとするならば「自分を好きだと思える部分はある」っていう風に言いたいと思っている。

 

自己肯定感は未だによくわからない。わからないけれど自分を責めることは少なくなった。あ、意識して少なくした。自分を責めたところで、何か改善するわけじゃないことを学んだし、自分を責めても自分が気持ち良くなるだけだって気づいたから。

 

自分のことを「クズな自分」とか「ダメな自分」と表現することはもうないし、しないよう意識している。ただ…、矛盾してるけれど、自分のことを「クズな自分」「ダメな自分」と思う時は頻繁にある。意識の中で自分のことを「クソみたいなクズだ」と思うこともある。だけど、自分を表す言葉として、文字に載せることはやめたんだ。とか書きながら「ダメな母親」って言葉を名詞的に使うことはあるんだけど…。てへ。

 

自分のことをクズとダメで表現するのは、公開オナニーだと思うようになった。自分で自分を否定する言葉を使って表現して、気持ちいいのは自分だけだったんだ。

 

他人に言われると受け止めきれないほど傷つくから、自分から先に言ってしまおうとする自己防衛。もう十分傷ついて、自分を守って言ってるんだから許されることだと自分を特別扱いする特別視。自分を自分で叩く(攻める)ことで、もう一人の自分が優位に立った気分になり快感を得てしまう支配欲。自分が傷ついていることを哀れんで酔いしれる自己憐憫

 

謙遜とは違って、自己卑下に属する表現は、聞いていて読んでいて嫌な気分になる。確かにクズなのかもしれない。事実ダメなのかもしれない。現実としてクズでダメなのかもしれない。だけど、そのクズやダメの基準は自分の中にあるもので、自分の基準で自分を裁いてるということは、他人も同じように裁きながら付き合ってるということで、そもそも裁く側にいるそいつは何様なんだ?ってことなわけで。だから、自分を叩く言い方や自分を蔑む言い方で自分を表すのは、いやだな。ダサいなぁて思うようになった。

 

思うことは自由だ。何を思ってもいい。でも、それを言葉や文字で表したら、自己満なんだな…。自分の辛さや苦しさをわかってもらうってことには、けして繋がらない。クズとダメを使って自分を表しても、相手の理解は得られないし本意は伝わらないのだ。

 

自己肯定感を高めるのは難しい。自己評価を上げるのも同じように難しいのかも。時間がかかる。何をすれば自己評価が上がるのか、あげられるのか、あげる気になるのか、特効薬はどこを探してもない。自分で自分をどう取り扱うかは自分が決めるしかないわけで、自分で「これをやる」と決めないことには変わるチャンスもない。

 

いやそもそも、自己肯定感ってやっぱりイマイチわかんねーけど。だから、自己否定感を小さくしていけば、何か見えてくるんじゃないいのかね?

 

自分を蔑む表現は痛々しいさを感じる。でも気持ちいいことだから、自分では気づけない。やめないし、やめれないのかも。

 

でもでも…

 

意識してやめてみると、ラクだよ。