向き合う日々

動いて考えて捨てて減らして、感じて変わっていくかもしれないブログ

「助かりたい」と思っているかどうか

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苦しくて辛くて真っ暗で窮屈な部屋から出れないような閉塞感を感じた時、よく「誰か助けて」と小声で言っていた。だけどあの時、本当に誰かに助けて欲しいと願っていたか?と言えば、そうではなかった。言葉では「誰か助けて」と形に出していたけれど、私には誰も受け入れる気はなく、差し伸べられているかもしれない手を取る気もなかった。とは言え、そういう自覚はなかったから、それも気づけなかったんだけど。

 

私は特に「どうせ誰にもわかってもらえない」「気持ちがわかるなんて簡単に言うな」というような気持ちが強かったから、周りから自分を遮断していたし、自分から助けを求めることもしなかった。と今は理解できる。

 

そもそも、「助けを求めて良い」なんてことを選択できると思っていなかったし、何を以って「助け」というのか、それもわからなかった。助けるというくらいなら代わってくれ、私の代わりに生きてくれ、私の代わりに苦しんでくれ、そういう感覚を持っていたと思う。

 

「頼る」ことや「助けてもらう」ことがどういうことなのか、具体的なことがわからない。私にとって「頼る」や「助けてもらう」は、「迷惑をかける」ことと同じだと認識していたから、それまでしてこなかったし、頼られたり助けを求められても「なんでそんなことができちゃうの?言えちゃうの?」と嫉妬心が湧き、快く思ってこなかった。特に子供の頃はそういう気持ちが強く、所謂甘える仕草や言葉には嫌悪感を持っていた。「人に迷惑をかけてはならない=頼ってはならない、助けを求めてはならない」が私にとって、至極当たり前で正しいことだった。

 

手伝うことや助けることを「手伝え」や「助けろ」と強要されると、「しなければならない」ことに変化してしまう。過去の私には、他人の思いに応えるか否かの選択権はなく、優先順位の先頭は「言うことを聞く」であった。常に他人を優先に、他人の思いを叶えるのが正解だ、というような言われ方をしてきたのだと今はわかる。「助けてあげるのは善」で「助けてもらうのは悪」、そういう無意識はコツコツ作られた。

 

「頼る」や「助けてもらう」ことは特別ではなく、人が生きていく中で誰もがお互いにし合う事なのだと知ったのは、最近のことだ。他人に迷惑をかけずに生きることは不可能で、生きている限り誰かの手を借りるし、誰かにやってもらう事ばかり。「人は一人で生きていけない」という意味がやっとわかった気がした。誰かに助けてもらいながら産まれてきて、誰かに頼りながら生きて、誰かに迷惑をかけながら死んでいく。それは自分だけではなく他人だけでもなく、誰かに迷惑をかけながら誰かの迷惑を引き受けて生きる。そういうことを、少し受け入れるようになった。

 

「助けてもらう」ことが、毎日を生きる中に当たり前として根付いていなければ、周りの人が助けようと手をさしのべても、気づかないし手を取ろうとはしない。だから、助けてもらう側に受け止めようとする気持ちがなければ、助からないのだと思う。

 

私は「助けて」と言いながら、「助かりたい」と思っていなかった。

 

自分が「助かりたい」と思っていないなら、助けてくれる人が大勢いたとしても、助かるはずがないと思った。例え、助かったとしても、その先に繋がろうとしないから、また同じことを繰り返す。私に、助かりたいという意思はあるのか?誰かが引き上げてくれるのを、ただただ待ってただけじゃなかったのか?

 

だったら「助かりたい」と思えるようになるには、どうすればいいのだろう。

 

「助けて」から「助かりたい」に変わった理由は、はっきりしていない。何をしたからとか、何を見たからとか、何を聞いたからとか、そういったきっかけは特に見当たらない。だけど思い返せば、いつも頭の中には「私はどうしたいんだろう」があった。私はどうしたいんだろう、私は何がしたいんだろう、私は…と。

 

他人の気持ちではなく、周りの反応でもなく、とにかく自分の気持ちはどうなのか。自分の思いは何を持っているのか、怒りや恨み、悲しみ、全てを取り払った後に残る自分の気持ちを炙り出す。たとえそれが「我儘」や「身勝手」や「矛盾」したことでも、それが私の想いならば、それが私の気持ちなのだと頷いてその気持ちを持ち続けることにした。

 

「誰か助けて」と訴える自分の姿を俯瞰してみた時、とても滑稽に見えた。ジタバタと手足をバタつかせ、泣きながら訴えているような自分の姿が思い浮かんで、手を差し伸べるどころか呆れた気持ちが湧いてくる。その時「あぁ、自分は本当に助かりたいって思ってないんだな。」とすんなり納得した。 そして「私は本当に助かりたいと思っているのだろうか?」という疑問が出てきて、「私はどうしたい?」とさらに問うと「助かりたいんだな」とわかった。

 

「誰か助けて」から「助かりたい」になり「助かりたいから誰か手伝ってください」に変わってから、死を望む精神と思考が減速していった。「頼る」や「助けてもらう」「手伝ってもらう」の具体的な行動はわからなかったけれど、私の気持ちの中にはそれを受け入れる準備ができていって、それは「お願いする」ことなのだと気付いた。