向き合う日々

動いて考えて捨てて減らして、感じて変わっていくかもしれないブログ

自己肯定感が低いどころか「わからない」その理由。

 

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精神的な病に陥ったり、生きづらさを自覚すれば、

当然のように意識し目に入ってくる

「自己肯定感」。

子育てしてる環境に身を置いていればなおのこと、

気になる言葉だ。

 

しかし…、私には何がなんだかわからない。

自己を肯定するって?

自分を肯定するとはなんぞや?

そもそも肯定とは何よ。

肯定=認める。

 

えぇ〜っと、「み・と・め・る」ってナンデスカァ?

認めるって認定?認識?認…認…認…?

カウンセラーに問う。

感覚を言葉で説明するって難しいよね…。

いやどんな言葉を丁寧に話してもらっても、

受け取るアタシが???なんだから、どうしようもない。

 

そうか、アタシは認めるがすでにわからないのか…どうりで。

わからないというのは、実生活のどの場面でどんな風に感じるモノなのか、

感覚が全く想像できないといったところ。

「自分を肯定している感覚のこと」らしいが、その感覚がわからない。

自分を肯定するってどういうことなんだろ?

自分がわからないんだから、子供の自己肯定感を高めるなんてできるわけがない。

しかし私は、それがしたい。

 

それだけがしたい。

 

日々の暮らしで出来たコトを数える。

出来たコトを数える事によって、「出来た実感」を得る。

出来たコトを思い出し「うん、出来た」と納得する。

これが認めることであり肯定する…に繋がるようだ。

ただ、これにはちょっとした問題があった。

私は「出来た」と数えると、「出来ない」結果にばかり意識が飛び、

「出来ないコトばかりなのに、これが出来たなんて言えない」と、

死にたくなってしまった。

否定にしか意識を向けず生きてきた結果、

肯定にけして目を向けない、向けてはならないと思い込んでる自分に、

ほとほと嫌気がさす経過を実感する。

 

カウンセリングではその経過を話し、「出来た」を「やった」に変えるコトにしてみた。

すると随分「出来ない」が薄くなり、「出来た、やった」と実感するようになっていった。

 

自己否定ならいくらでもスラスラ出てくる。

なのに、反対の自己肯定が出てくるどころか「わからない」という現実。

「一体、アタシの何をどこを肯定しろっていうんだよ。」

 

最近になり、なぜ自己肯定感がわからないのか少しわかってきた気がする。

私の中で、私という個体を置き去りにしている気がした。

他者にばかり意識が囚われ、自分を蔑ろにし、居ない存在にしている。

否定する時だけ最前列に登場させ、否定的査定を実行。

肯定する時は最後尾に隠し、存在すら消す。

だから、自己を肯定する作業は省かれてしまう。

それ故に自己を肯定した経験がない。

なんとも器用に入れ替えていた。

 

いつも不思議に思っていた。

子供に対してはだいぶ「認める」作業ができてきてるのに、

なぜ自分には一切しないんだろうって。

やってるコトや出来てるコトはそれなりにあるのに、

それを認めないのはなぜだろう…。

やはり「そうしてもいい」というOKサインを、

自分に出そうとしてないし、

子供も含めた他人と同じ壇上に、自分を立たせていないんだ。

自分は他人と同じ高さに並んではならない、

同じ場所に立つ価値など無い、というような無意識。

 

コレを考えていたら、母を思い出した。

 

常にヒトに対し順番をつけたような見方。

簡単に言えば、年功序列的な、男尊女卑のような。

他人との関わりでは、常に自分の序列を入れ替えているようなもので、

自分の立ち位置は他人の位置によって変わる生き方が当たり前の感覚であった。

いつも誰かと比べ、いつも自分に無いものにだけに意識を向ける。

 

私が時折、意識的に自分を肯定しようものなら、

「アタシ天才、アタシって偉いでしょ。アタシってスゴい。」

っていう勘違い。

強がって無理矢理自己チューに浸るっていうやり方。

所謂イタい表現。

これじゃぁ、満たされるどころか自虐だ。

 

ココには隠れた心理が見える。

他人と同じ壇上に上がらない、同じ列に並ばない選択をするってことは、

「自分は特別な存在である」と言っているもいえよう。

自分を蔑みつつ、存在を消しつつ、全能感に似た「特別な存在意識」で、

自分を満たしているように思うのは私だけだろうか。

 

自己肯定感がわからないのは、

そのかわりになる全能感で補えていたから?

…おそらくそうなのだろうと思う。

 

謙遜に見える自己否定をしながら自分を守り、

自分を特別な所に追いやって全能感に浸る。

そうやってバランスを取ることで、生き延びてきたのではないだろうか。

 

これならば、今私の身に起きている感覚に説明がつく。

 

生命を維持させるため、歪んだ術を身につけた。

極端なコトには極端なコトで、表裏一体のバランスを保ちながら。

 

なぜ対局する性質が自分の中に居座っているのか、不思議で仕方なかったが、

自己否定を補うための傲慢な自己愛の全能感という存在を感じた。

 

パーソナリティ障害の中でも、

境界性パーソナリティ障害」の特徴が強く自覚もあったし、

元々アダルトチルドレンの要素から探っていたので、

自己否定にばかり注目していたが、

カウンセリングを通して、傲慢な思考が見え隠れし始め、

どんどん「自己愛パーソナリティ障害」の特徴に気付き始めた。

私にとってその感覚はあまりにも恥ずかしく、ショックだった。

屈辱的なやるせなさが邪魔して、口に出すのもおぞましい。

そんな姿で生きてきた自分を、なんども消し去りたくなり、

カウンセリングを何度もバックレたくなった。

 

けれど、

その姿もまた「私」である。

 

綺麗さっぱり消し去りたいが、残念ながらそれは不可能だとわかった。

それがわかった時は非情な現実に怒り狂ったが、私は神ではない。

ナニモノでもなく、ただの人間だ。

不可能を可能にする魔法はない。

だからもう、不可能な理想を追い求めるのはやめる。

理想を追い求める為に使っていたエネルギーは、

自分に起きてる現実を受け入れる為の受け皿に使いたい。

だってその方が、ずっと充実感と達成感がある。

 

私は充実感と達成感に飢えているのだ。

 

日々のちょっとした充実感と達成感すら得られないから、

生きるがつまらない、楽しめない、意味が見いだせないに繋がってきた。

 

自己否定しながら生きる私も、歪んだ自己愛を持つ私も、

切り離すことができないなら放ってみることにする。

そんな自分にばかり目を向けても、息苦しいだけだ。

今は、それらをどうするか決めかねているが、

ひとまず、ずるずる引きずりながら行くことにしよう。

断捨離するにはまだ早い。

 

よく、「自分を認めてあげる」なんてフレーズを目にするけれど、

認めるがわからないアタシはどうすりゃいいんだよ…、

っていう苛立ちが毎回あった。

文字だけでは理解できない感覚が、私には多いのだと日々実感する。

 

言うは易し行うは難し…なのだよ。