向き合う日々

動いて考えて捨てて減らして、感じて変わっていくかもしれないブログ

何を失敗として、何を成功とするか。

 

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数日前に仕込んだ粒あんで、こんなサンドイッチを作りました。

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8枚切りの食パン2枚に、マーガリンon粒あんonホイップクリーム。見ただけでお腹いっぱいな内容を、朝から完食しました…私一人で。

 

でもねぇ、一言で言うとマズかったのです。

 

粒あんのボケた甘さとパサパサ感、喧嘩してしまったホイップクリームとマーガリン。三者の薄い味が、一切の満足感を奪った気がします。せめて、マーガリンと粒あん、ホイップクリームと粒あん…にしとけばよかった。欲張った結果、相乗効果なし。う〜む。

 

それよりも粒あんが問題でした。奮発して大納言を使ったものの、全く良さが出ていない。粒あんというより、「こしあんと皮」みたいに分離した舌触りがイマイチ。味付けも甘さを控え過ぎて味がしないくらい。 

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今回は圧力鍋を使用。粒の形が残っても皮がやわらかい、ほっくりした粒あんが出来る予定だったけれど、難しいなぁ。

 

以前はシャトルシェフという保温調理鍋を使って美味しく仕上がっていましたが、断捨離しました。稼働率の悪さに圧力鍋と天秤にかけた結果です。保管する事に疲れたんですよね。

 

小粒の小豆を圧力鍋で煮た時は上手くいったので、安心してシャトルシェフを処分したんだけれど、大納言はまだまだ要研究の模様。

 

…とここまできて「失敗した」と思っていました。いや、失敗ですよね…、美味しくないんだから。だけど、食べれないほどか?と言えば食べれる。そうなると失敗とは言わないような…。美味しさを成功にするか、食べれるを成功にするかで変わってくるのか。

 

失敗失敗ってすぐに思うのですが、視点を変えれば失敗にはならない気もするわけで。

 

もっと美味しくするには…と考えると、まだまだ変化させる余地はある。さて、鍋に入れて練り直すか…。

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水と砂糖を足して火にかけて、数分ふつふつさせたらこんな感じに。 

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結果イイ感じになった。

 

味はいいけど、やっぱり皮の硬さが気になる。失敗とも成功とも言えない仕上がりです。

 

「失敗」の言葉で結果にレッテルを貼ると「失敗ばっかり…」と思い込み、次に繋げる気持ちになれなくなる。「ばっかり」の言葉も、安易に付けて飲み込むから「出来ない自分」という感覚がしみ込んでいく。

 

「失敗したけど調整ができる」っていう余白を持っていれば、もう一度やってみようという意欲に繋がりそう。言葉は大事だな。今まで勢いで修飾語を付けてきたから、本質の意味が薄くなる割に極端な反応になっていたんだ。

 

失敗にも成功にも改善の余地ていうのはあって、変化への希望があるわけで。だけどこのモヤッとした感覚に違和感があって、すぐにでも結論をはっきり出したくなるけれど、こういうことをしていると、探究心はすっかり失せて向上心なんてものは皆無になるという仕組み。

 

いや、簡単に言えば「失敗という結果に感じる感覚」が苦痛、ということなのですが、失敗でもなく成功でもなく、また研究できるという体験に楽しみを感じれば、「またやりたい」になるってことなのかな?

 

安心したいから確実に成功するやり方しか受け付けない。不安になるから試す事を恐れ動かない。失敗をくり返した先に成功はあるはずなんだけれど、失敗すればあの嫌な感覚や感情に包まれるから怖い。

 

失敗とか成功とか、自分の設定次第なんだろうか。例えばスタートとゴールがあったとして、ゴール出来たら成功?ゴール出来なかったら失敗?そうでもなさそうよ。

 

前回の記事に載せたピザの黒こげ。

noribealive.hatenablog.com

 

これって失敗なんだけど、楽しかったんですよね…。記事にして読んでもらったのも嬉しかったというか楽しかったと言うか…。だから、また作りたいと思ったし。なんなんでしょう、この感じ、始めてかも。

 

成功するまで続けるのか飽きるまで続けるのか、成功も失敗も答えはわからないけれど、とりあえずそのままにして、やってみたい事は続けてみようと思います。