向き合う日々

動いて考えて捨てて減らして、感じて変わっていくかもしれないブログ

知った気になってた言葉の意味を調べ直し、勉強が何かを知る。

 

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お願いポーズ(合掌みたいに指を組む形?)を

額につけ

「勇気を下さい、勇気が欲しい。」

眼をギュッと閉じて唱える。

 

苦しみの絶頂時は大概そんなコトをして、

やり過ごしてきたけど、

ふと…

 

「はて…、そう言えば勇気ってなんだ?」

 って疑問に思った。

 

電子辞書で調べ、

ネットで検索。

 

勇気…いさましい意気。物に恐れない気概(広辞苑

 

あのぉ…、

「意気」と「気概」がわかりません。

 

意気…きだて・心ばえ・きまえ・心もち・気性(広辞苑

気概…困難にくじけない強い意気。気骨。いきじ。(広辞苑

 

えーとぉ、増々こんがらがってきました。

困った時の広辞苑

アタシには難し過ぎた。

 

ならば…Wikipediaだ!

 

「普通の人が、恐怖、不安、躊躇、あるいは恥ずかしいなどと感じる事を恐れずに(自分の信念を貫き)向かっていく積極的で強い心意気のこと。」

 

だって。

やるじゃんWikipedia

わかり易い。

 

「恐怖・不安・躊躇・恥などを感じる事を恐れずに…」

 

アタシはココに着目。

コレが勇気というならば、

真偽に関係なく、

 

欲しい。

 

絶対に欲しい。

その勇気が欲しい。

 

同時に

自分が思っていた「勇気」が、

ズレてたコトに気付く。

 

アタシは

「感じないのが勇気」

と解釈していたような感覚がある。

 

そうじゃなかった。

 

「感じるコトを恐れずに向かっていく」

 

大違いだ。

そうだ、そうだ、そうだった。

全ての感情は感じるモノであり、

感じない様にするモノではなかった。

 

それ学んだじゃん、すでに。

 

その時々に感じる感情を、

怖いから嫌だから駄目だからと歪めてきたから、

苦しみに繋がる。

感じた感情は感じたままでいいのよ。

それをどう処理するかは別だけど。

 

「知りたい」から「知る為の行動」にうつり、言葉の「意味を考える」。

これが「勉強」というのかもしれない。

 

「やらされて」「仕方なくやって」「何となく終わりにした」行為。

それを勉強とは言わなそうだな。

 

我が子よ…、すまん。

 

昨日のコトを考えてたら、

去年のコトに繋がって、

また落ち込む。

 

だけど、

 

言葉は侮れない。

 

産まれてから、

何となく喋れるようになって、

何となく意味がわかってきて、

何となく使い分けして使ってる。

 

歪んだ日常で育ったアタシには、

歪んだ理解が多い。

歪んだ解釈の積み重ねが、

歪んだ人格の成り立ちではないのか?

 

改めて1つずつ確認していかないと、

また次世代に引き継いでしまう。

面倒くせーけど、

面倒臭いコトの積み重ね。

 

「知りたい」に勝る意欲はなさそうだ。 

 

学校の勉強が勉強っていう、

おかしな感覚も薄まりそう。

 

そうでした。

アタシはそれに気付いたんだから、

子供にも当てはめて見守ればいいじゃない。

 

きっかけを作った 

「勇気」って言葉は、

色んな意味でスゴい奴だった。