「言及された」っていう通知より「触発された」の一文にグッとくる。
しーてんさんに言及していただきました。
祝!初言及。
ありがとうございます。
「言及」ってことが何なのかわからず、かなり動揺してしまいました。
今まで言及って言葉、使ったことなかったですし、
なんだかあんまりいい印象のない言葉だったので、
アクセス欄の下にある「言及された記事」って文章に、かなりビビってましたから。
私にとっては、追求される…的な、ちょっと怖いイメージの言葉でして…。
でも意味をよく知らないってのは、いかんですな。
毎日こんなことばかりで。
でも、ドキドキしながらブログを拝見すると「触発され…」と記載してあり…、
「よっしゃー!」と心の中でガッツポーズしながらニヤニヤしました。
嬉しいですね…、誰かに何かを感じてもらえるって。
そしてそれを元に、文章になり記事にしていただけるって…、
嬉しい。
とにかく嬉しい。
この記事は、下書きから書き上げるのに1ヶ月ほどかかり、
何度も自分の感覚を呼び起こしながらの作業だったので、
かなり、形の無い思いを形ある文章に変えて表現できた記事だった。
向き合ってきた自分の中に、たしかに確認できた今の私の理解。
それが正しいかどうかは、まだわからない。
これから修正していく部分は、かなりあると思っている。
しかし、しっかりと自分の中で咀嚼した理解が少しでも無いと、
何に悩み何に苦しんでいるのかが具体的にわからず、
進みようがなかった。
いつも真っ白な霧の中をふわふわと無重力空間のように彷徨い、
溜め込んだ感情の発散先もわからず、常にイライラして。
出口の無い感情は、気を許せば途端に、弱い者に向けられ簡単に発散されてしまう。
けれど、自分の中に芽生えた他愛も無い疑問に、
その都度立ち止まり、1つ1つ時間をかけて待てば、
自ずと沸き上がってくる答えらしき何かがある体験をし始めた。
探し続け求め続けていれば、自分に引っかかる何かに出会い、
関連性が無さそうでも、理解という点と点が増えていけば、
やがて線に繋がるコトもあるのだろう。
それは偶然のように思え、自らの努力とはにわかに思えないが、
必然につながる行動を取らなければ、出会えない偶然だとは思う。
私はただ、幼き2人の人生を守り受け止めたい。
それが産んだ者の責任だと今は思っているが、私にはとても難しいことだと知った。
知ったからには、向き合わずにはいられない。
いや、逃げようと何度も思ったが、
なぜだかわからない「悔しさ」に引っ張られ、凝視させられてきた…という感じ。
どこからくる悔しさなのか今はわからないが、そのうちわかるだろうと思う。
生きる意味なんて、今の私にはわからない。
っていうか、わからなくても生きているので、わかる必要性を感じなくなった。
生きるコトそのものに、何か意味を持たせないと生きてはならない、
っていう意識こそが歪んでいるのだと思ったからだ。
生きる意味があろうとなかろうと、
ただここに生きているだけで充分だと、何度も思ってしまったからね。
生きることに何の意味があるのかどうかは、
意味に出会うまで生き続けなければわからないのだと思う。
意味があるかもしれないし、無いかもしれないし、そんなことは誰にもわからない。
自分には意味のないことでも、他人には意味のあることかもしれない。
「コレが私の生きる意味です」というものだけが、
その人の生きる意味なのだろうと思う。
けして一人では為し得なかったこれらの思いも、
私を理解しようと努力してくれた人達の応援で、今発信できている。
自分と向き合うことをスタートした時とは、
明らかに変わった理解がここにある。
まだまだ理解という名の「点」の集まりだけで、
「線」には繋がらないことばかりだ。
点すらなかった数年前より、遥かにマシで遥かにラクではあるが、
もう少し先へ進んでみたいと思っている。