向き合う日々

動いて考えて捨てて減らして、感じて変わっていくかもしれないブログ

「大切にする」もわからなかったので、モノを通して養い直してみる。

 

「大切にする」ってどういうことだろ?

 

自己肯定感に引っかかってる私には、やはりそれもわからなかった。

モノを大切にする、

ヒトを大切にする、

自分を大切にする。

その全てがよくわからない。

 

noribealive.hatenablog.com

 

<大切>…広辞苑より

  1. 大いに尊重すること。多いに重要なこと。
  2. 大いに愛すること。また、丁寧に扱うさま。
  3. 愛情。
  4. 非常に切迫すること。危篤に陥ること。

なるほどなるほど。

今までの認識はまぁまぁ合ってる。

でも、何でわからないって感覚なんだろ?

 

モノを捨てる行為をやり始め、早3年。

「人生がときめく片付けの魔法」を書店で立ち読みしたことからはじまり、

牛歩の如くモノと向き合ってきた。

向き合う度に底知れぬ罪悪感と対面し、目を背けてゴミ袋へ放り投げる。

そんなことを続けてきたら、モノに対してさしたる愛情を感じていないことに気付く。

いや、それをいうなら、愛情とやらもわからんって話しだ。

 

モノ・ヒト・コトに対して特段の感情を感じない、

いや、感じないようにしてきた?のかもしれない。

ふと、自分が大切にしてきたモノってなんだろう…と記憶を辿るが…、

 

何も無い。

 

こんなところにミニマリスト的な言葉が出てきても仕方ないのだが、

何度考えても何も出てこないコトに驚愕だ。

 

そこで、「大切」がわからないんだから「大切にしてきたモノ」じゃなくて、

「捨てられなかったモノ」を意識して、家中を探索してみた。

そしたら出てきたのがコレ。

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たぶん、20年以上近く使ってる水切りかご。

一人暮らししてる時からだから間違いない。

MADE IN JAPANって書いてある。(おぉっ!)

これは、モノを減らしたいが為に何度も撤去してみたが、

なんともこの大きさと形状の使い易さにやられてしまい、

戻してしまうという現象が続いている。

 

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15年は着ているであろうラグランTシャツ。

結婚してすぐの頃、USJに行った後アメ村(アメリカ村ってもうない?)で買った。

前面にシルエットのデザイン画が施されてあって、

どこにも無い唯一無二な感じがものすごく好きだ。

(それだけに画像は背面で失礼しますね)

品質がいいんだろうね、ほつれや毛玉が今もないぞ。

いつもボトムスは基本ジーンズなので、七分袖のTシャツは都合がいい。

ラグランスリーブは、肩幅の広い私にうってつけのデザイン、好んでよく着る。

 

これは、「大切にしてきたモノ」という括りなのだろうか…。

んんん〜、あまりそういう感覚を感じない。

気付いたら使い続けてきたモノ、という意識しかない。

だけど、この二つのモノに対する私の思いは、

おそらく「大切にしている」に値するんだろうと思う。

大切にしてきたから、愛情を感じるから使い続けてきた…ということではないのか?

 

だとすれば、意識して「大切にしたい」と思い込んでみる。

無理矢理でもそう思い込んで使ってみることにする。

 

先日、この食器が相次いで壊れた。

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壊れた(壊した)時、結構ショックを受けた。

正直、そんな自分にビックリだった。

 

もちろん、この前照明が壊れた(壊した)時と同様、

noribealive.hatenablog.com

「ラッキー!」なんて気持ちもあった。

「減る」という現象にフォーカスを当てるとそんな感情も湧く。

だけど、その中に少しだけ

「大切に使ってきたのに…」という思いが浮かんできたことにも気付いた。

 

私の喜怒哀楽の感情表現は、オーバーアクションである。

おそらく他の人より大げさで、わかり易いと思う。

好き好んでそんな表現を選んではいないが、物心ついた時からそうしてきたから、

変えようがない、というかどう変えたらいいか、わからない。

いや、わからないというより、変えるコトが怖い。

オーバーにリアクションしなければならない…、とでも縛られているかのように。

しかし中身の感情そのものはというと、甚だ疑問なのだ。

そんな外身と中身のギャップは、ずっと前からわかっていたが、

それが実際に感情を感じているか否か、なんてことだとは思いもよらなかった。

 

私は他人中心に生きてきたので、まずは周りがどう反応するかを瞬時に考え、

それに見合うだろう自分の表現を決定してきた…のだと思われる。

その能力たるや、我が身を疑う程のものだ。

だから、自分がその時々に何をどう感じているかなんて、

どうでもいいコトになっている、

どうでもいいコトにでもしないと、自分を保てない、

…ということかもしれない。

 

大して面白くもないコトを面白かったと大笑いし、

大して悲しくないコトも悲しそうに泣いてみる。

 

意図してきたわけではないが、無意識でもなく、

なんとなくそうするのが当たり前になっていたんだ。

 

自分が一体何を大切にしてきて、何を大切にしたいと思っているのか。

常に自問自答し続け意識しなければ、大切にならないという自分の意識。

 

やはりモノと向き合い、

モノを通して感じていかなければわかり得ない感覚だったと、

今は強く思う。